2017年12月30日

直虎を行く 浜松

史蹟の仲間5人と浜松へ。
ここ数年11月に行っていた史蹟仲間旅行は、今年12月となりました。場所は、今年NHKの大河ドラマとなった井伊直虎の活躍する「浜松」です。浜松・浜名湖といえば、鰻や浜松餃子など全国的にも有名なグルメの宝庫!です。いろいろ楽しみがありそう…そんな気持ちを胸に秘め・・・。
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まずは、浜松駅でレンタカーを借り、5人の旅が始まりました。

《三方ヶ原の古戦場跡とうなぎ》
三方ヶ原の戦いは、元亀3年12月22日(西暦1573年1月25日)に、遠江国敷知郡の三方ヶ原(現在の静岡県浜松市北区三方原町近辺)で起こった武田信玄と徳川家康・織田信長の間で行われた戦いです。信長包囲網に参加すべく上洛の途上にあった信玄率いる武田軍を、徳川 ・織田の連合軍が迎え撃ったが敗退した。その後の家康の人生観に大きく影響した戦いとして知られています。
特に見所は無く、墓園の中に、碑が立っているだけです。ここで合戦があって家康大敗したんだなぁという感慨はありましたね、何といっても信玄と家康の戦いですから。
近くのうなぎ屋「よし松」さんで昼食をいただきました。浜松と言えば「うなぎ」。あちらこちらに「うなぎ」の看板が目につきます。意外に安いのです!
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《井伊谷宮》
三方ヶ原から北に向かって4,5キロ、龍潭寺のすぐ北にある井伊谷宮の駐車場に車を止めました。社殿の後方に神明造の本殿があり、その後方には、石垣に囲まれた宗良親王の御墓があります。
「井伊谷宮」は、明治の初めに宗良親王を祭神として建てられ、浜松市内で唯一「官幣社」(神社の格が高いことを示す称号)となった神社です。宗良親王は後醍醐天皇の第四皇子で、南北朝時代に、井伊道政が治めるこの地を南朝の拠点とし活躍しました。ちなみに、建武の中興に関係した、南朝側の皇族・武将は明治になって、各地に官幣社として祀られています。建武の中興は、武家中心の社会を、古代の律令国家へ戻し、天皇中心の社会へ復帰させることが目的。徳川幕府の武家社会から維新によって、明治政府を樹立した明治天皇にとっても、この建武の中興は意味深い時代であり、建武中興に尽力した祭神・宗良親王を、その功によって本拠地であり、御墓のあるこの地に祀られたのが井伊谷宮の始まりということです。
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宗良秦王の陵墓を過ぎ、そのまま進むと龍潭寺の裏の墓所に出ました。

《龍潭寺》
大河ドラマでもおなじみの「井伊直虎」ゆかりの地として人気の観光地です。特に龍潭寺周辺には史跡スポットも多くあり、見どころ豊富な注目エリアとなっています。井伊家40代の祖霊を祀る菩提寺、「龍潭寺」。その歴史と共に多くの文化財を残しています。本堂、開山堂、御霊屋などの6棟は県指定文化財にも認定され、江戸の風情が感じられました。井伊家墓所、家臣の新野氏、奥山氏、中野氏や松下氏などのお墓、桶狭間で直盛と共に討死した重臣たちの墓や井伊谷三人衆の墓では、多くの観光客がガイドさんの話に聞き入っていました。また、東海一の名園とも言われる小堀遠州作の美しい庭園もゆっくり腰を下ろして見学しました。しかし、12月ですからね〜足が寒さで痛くなってきました!帰り際のお休みコーナーの暖房マットはうれしかったです!
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《渭伊神社》
龍潭寺から車で北に数分のところにある「浜松市地域遺産センター」に移動し、そこから渭伊神社、天白磐座遺跡へ歩いて向かいました。
渭伊神社は井伊氏の発祥とともに氏神(同じ地域に住む人々が共同で祀る神)となった神社で、井伊氏の歴史を語るには欠かせない場所です。当初は井伊氏の菩薩寺である龍潭寺内にありました。南北兵乱が起こった際に現在の場所に移ったと伝えられています。
境内はかなり広く、小さな社や県指定の御神木があります。手前の木はすでに枯木のようで、傍の木に横たわっています。平成元年に手前の木と傍にある木の2本が御神木と指定されたと書かれていました。高い木々が茂り、とても静かで厳かな雰囲気でした。
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《天白磐座遺跡》
渭伊神社の本殿の後方、薬師山とも呼ばれる丘の頂きには、巨大な石がいくつも横たわっています。大河ドラマ「直虎」のロケ地として使われた場所ですね。テレビではもっと山奥の感じでしたが、意外に身軽にける場所でした。
バランスのとれた配置で散在する石群は、巨石を神の拠り所(磐座)とした古代の祭祀場の遺跡で天白磐座(てんぱくいわくら)と呼ばれ、日本の磐座の中でも、神の気配の深さにおいて屈指のものです。三方を神宮寺川に囲まれていることから、天白磐座遺跡は、水霊を祀る祭祀の場だったと思われます。昭和59年(1984年)、下草や低木に覆われ荒れていた巨石周辺を、地元の人々が手入れをしたことで現在の景観となり、遺跡であることがわかりました。その後、いくつもの土器の破片や鉄鉾、勾玉、和鏡などが発見され、4世紀(古墳時代)から13世紀(鎌倉時代)まで続いた祭祀場だったことがわかっています。
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《地域遺産センター(協働センター)》
元の道を引き返し、「浜松市地域遺産センター」に戻りました。ここは今年1月15日にオープンし、開館記念特別展として「戦国の井伊谷」を開催していました。展示室には、直径2メートルの井伊谷周辺のジオラマにプロジェクションマッピングを施す「井伊谷戦国絵巻」を設け、映像とともに井伊直虎の生涯や井伊谷の戦国時代の様子などを物語風に紹介していました。
さすがに井伊谷の中心とあって、様々な取り組みで観光客を迎え入れようという姿勢が見えました。

初日の見学はここまで。今夜の宿、三ケ日温泉「浜名湖レークサイドプラザ」へ向けて車を走らせました。
地中海を思わせる雰囲気がコンセプトのこのホテルは、目の前に雄大な浜名湖がありリゾート気分を盛り上げてくれました。そして、今日の疲れを(私が運転手!)天然温泉に 入ってゆっくり癒しました。
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朝日です。

☆二日目
《気賀のまち》
ホテルを出発し、また昨日の井伊谷方面に戻り、気賀のまちに向かいました。大河ドラマ館の駐車場に車を止め、気賀の関所へ。お店が出て観光客で賑わっていました。気賀のまちは、昔から三河と遠江を結ぶ重要な交通の要所でした。江戸時代には東海道の脇街道の一つ「姫街道」として栄え、関所があった所です。「姫街道」と呼ばれる所以は、女性が多く利用したことです。というのも、東海道は浜名湖周辺は、大きく分けて、湖の南側を通るか、北側を通るかになります。基本の東海道は、浜名湖の南側ですが、浜名湖を渡ることはとても危険で、女性たちは遠回りになっても峠越えになっても、安全な北側の街道を多く利用した、ということです。「姫街道」と呼ばれるようになったのは、井伊直虎が亡くなった後で、徳川家康の家臣・本多作左衛門が宿を作ったことから始まりました。なので直虎が生きていた頃は、まだ関所もなかったわけですが、人が多く通る町で、早くから商売人が集まっていたのでしょう。
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《気賀関所》
観光案内所の方にガイドをお願いして、まちを案内していただきました。まずは「気賀の関所」。東海道の関所では、あまり知られていない気賀の関所、私も正直言って知りませんでした。
この「気賀関所」は、1990年(平成2年)、ふるさと創生事業として復元したものと聞き、こういう事業ならお金も生きるなと感じました。
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復元された関所は、当時の場所とは少し離れていて、本番所は全国で最古の関所建物として昭和35年(1960)まではほぼ完全な形で現存していました。残念ながら、ほとんどが解体されてしまいましたが、現在その一部が民家の屋根として残されていました。
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ガイドさんの案内で、狭い路地を入ってみることができました。まち歩きはガイドさんが必要ですね!ちなみにこのガイドさん、伊那谷から気賀にお嫁さんに来たのだそうです。生粋の直虎ガイドさんですね!

《要害掘》
昔の関所跡までは復元された関所から500メートルくらい離れたところでした。道すがら堀に沿って歩きました。これが「要害掘」といって、宿場の南に沿って掘られていて、容易に抜け出ることができないように、関所の警備が強かったことを物語っています。東海道で重要な土地柄なのだと感じました。
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《細江神社》
路地を抜けて、気賀小学校を通り、気賀領主の近藤家の屋敷跡で往時は御殿と役所が置かれてたという立派な庭園のある吉野屋旅館さんの脇を歩き細江神社へと歩きました。
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地震厄除けで知られる「細江神社」。細江神社のご神体は、1498年の大地震で、旧新居町にあった角避比古神社から細江町へ流れ着いたものといわれています。また、細江神社は、巨木スポットとしても知られており、境内の巨大なクスノキは、浜松市の天然記念物にも指定されています。藺草神社(いぐさじんじゃ)の前にクスノキの巨木がありました。
1706年の夏、遠州地方に大きな地震があり、押し寄せた高潮のため稲は全滅になりました。領主近藤用髄は、その対策に頭を悩ませましたが、塩に強い沖縄の藺草の話を聞き、それを領内に植えさせることにしました。その後、藺草の生育もよく、また、冬にはそれを使った畳表の製織で生活が安定し、浜名湖一帯が栄えることになったといいます。そのことに感謝し、この「藺草神社」 が作られたとのこと。
ちょうど、町の人たちがしめ縄を編んでいました。
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《犬くぐり》
気賀関所は、住民でも手形が必要なほど厳格でした。街道の真ん中に設けられた関所は、住民にとっては非常に面倒なものだったといいます。そこで、関所の抜け道が作られました。関所の裏にくぐり戸を設け、筵(むしろ)を垂らした下を犬のようにくぐって通行。「犬ならかまわない」ということで、黙認されたということです。
写真の犬くぐりの筵は、細江神社の裏に復元されたものです。皆で無邪気に通り抜けました(笑)
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《気賀の駅舎》
天竜浜名湖鉄道の気賀駅舎、昔は、国鉄二俣線気賀駅だったのです。今は、無人駅になっています。駅舎の中に有るベンチは、昭和の初期駅舎が出来た当時のものであり、とても趣が有り、木造のホームも当時のまま残っています。気賀駅の上屋・本屋・プラットホームが国の登録文化財になっています。駅の正面には昭和13年3月のラベルが貼られています。
田園風景を走るローカル線で、のんびりと景色を眺めながら旅行のもいいなぁと思いました。
大河ドラマ館のすぐ近くでもあり、駅舎もホームも井伊家の赤備えのように真っ赤に装飾されていました。
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その後、大河ドラマ館により「直虎」の学習をし直し、方広寺を車窓から見て摩訶耶寺へと向かいました。ナビに従って走ったのですが、ずいぶん細い山道を走らされました。

《摩訶耶寺》
奈良時代開基の真言宗の古寺です。国の重要文化財に指定されている木造の千手観音立像と不動明王立像もとてもいいものでした。
鎌倉時代の庭園は、平安時代の様式を用い、池と築山と石だけで構成された珍しいもので、京都の西芳寺(苔寺)と並び賞されています。
お妙さんの楽しい話(?)を聞きながら、ゆっくりと過ごしました。
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《新居関所》
二日目最後の見学場所は、「新居関所」です。箱根の関とともに東海道の重要な関所であり、当時の建物が現存する全国唯一の関所跡です。慶長6年(1601)徳川家康が設置、今切(いまぎれ)関と呼ばれていましたが、再々津波に流され、宝永5年(1708)現在地に移されました。取締りは厳重で、特に入鉄砲出女の詮議は厳しかったため、婦女子がここを避け、湖北を回る姫街道を通ることが多かったとのことです。現在は安政2年(1855)改築の面番所が残っています。併設して女通行証文などの資料を展示する史料館がありました。ここでもボランティアガイドさんが活躍していました。やはり、入間でできないかなぁと考えてしまいます。
歩いていて、NHKの「ブラタモリ」で放送していたのを思い出しました。もっとよく見ておけばよかったな〜

《旅籠 紀伊国屋》
江戸時代、関所を出た新居宿内の東海道沿いには20数件の旅籠(はたご:現在の旅館)が軒を連ねました。紀伊国屋の創業ははっきりしませんが、あるじが紀州の出身で、江戸初期に新居に移り住み茶屋を営んだのが始まりといわれます。
建物は明治初めの再建ですが、随所に江戸期の建築様式を色濃く残し、平成13年(2001)に解体修理を行い、当時の風情を体感できる施設として公開しています。明治7年大火事の後に2階建てに建替え・増築され、昭和30年代に廃業するまで、250年以上にわたり旅館業を続けていました。現在は旅籠と街道宿場文化を伝える資料館となっています。
時代劇に出てくる旅籠そのものでした。
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《エクシブ浜名湖》
今宵は、エクシブ浜名湖です。さすがに今日の一日は疲れました。いろいろ回りました。たくさん歴史を学びました。帰るとすぐ忘れてしまうのでしょうが、今日の学びを大切に思い返してみたいと思います。
エクシブのイタリアンを堪能して、またまた部屋飲みをして一日を締めくくりました。
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《太刀洗の池》
徳川家康の正妻で、井伊家の血を引くといわれる築山殿(瀬名)は、公家文化に精通していた今川氏の姫だけあって、気品のある女性だったといわれています。
家康が浜松城を築いて移ったあと、築山殿は、岡崎城の城代となった跡取りの息子信康と、その正妻で織田信長の娘である徳姫とともに岡崎城で暮らしていました。
しかし、ある日、家康が同盟していた織田信長に、娘婿と姑は甲斐の武田氏と通じていると断じられてしまいます。ほぼ天下を統一し、圧倒的な力を誇っていた信長は、家康に築山殿と信康の処分を命じ、家康は、やむなく妻を殺さなければならなくなりました。
天正7年(1579年)8月29日、築山殿は、浜松城に呼び出されて岡崎城から向かう途中、佐鳴湖畔富塚村の小藪で、家康の家臣により殺害されました。享年38歳でした。
使った太刀を洗ったことから、藪の中の大きな池は、『大刀洗の池』と呼ばれるようになりました。池は、それからずっと赤く染まったとも、一気に枯れたともいわれましたが、延宝6年(1678年)に築山殿の百年法要が行われてからは、清水に戻ったと伝えられています。
現在は池はなく、浜松医療センター駐車場の東側に建つ石碑が、築山殿の哀れを語っています。
佐鳴湖・・・さなるこ・・・綺麗な名前だなと思いました。佐鳴湖周囲は運動公園になっていて当時を想像することはできませんが、「この辺りで瀬名が殺されたんだ」と感傷的になりました。大刀洗の池の碑を探すのは大変でした。想像できないところにありますから。
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《浜松城》
浜松城は徳川家康の居城として知られ、家康は29歳から45歳までの17年間を浜松城で過ごしました。武田信玄と戦った「三方ヶ原の戦い」は信玄がこの城を無視したことがきっかけになっています。また江戸時代には歴代城主の多くが幕府の重役に出世したことから「出世城」と呼ばれています。現在は浜松城公園として整備されており、野趣あふれる野面積みの石垣を見ることができます。また、石垣の中からハート型の石を探すのがちょっとしたブームになっています。1958年(昭和33年)に再建された復興天守には家康が19歳のときに着用したといわれる金陀美具足が展示されており、最上階からは北に三方ヶ原古戦場、南に遠州灘、西に浜名湖、晴れた日には東に富士山を臨むことができます。さらに2014年(平成26年)には天守門が復元整備されました。
初めての浜松城でした。私は、家康自体はあまり好きな歴史上の人物ではないのですが、取り巻くドラマは興味がたくさんあります。浜松城は、思いのほか魅力的でした。石垣がいいです。野面積みという非常に荒々しいつくりで、一見崩れやすそうに見えますが、400年もの間風や雪に耐え、現在にまで当時の面影を残している貴重な遺構です。こういうところにお城や石垣が好きな方にはたまらないのでしょうね!
お昼時なのですが、歳のせいもあるのでしょうが、毎日よく食べていますので、昼食抜きで頑張ることにいたしました。そして、新幹線に乗る前に浜松餃子で一杯やろうという算段になりました。
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《元城町東照宮》
織田信長公に出会う前の「豊臣秀吉公」と、まだ無名だったころの「徳川家康公」。それぞれと縁のあった「引間城(曳馬城、引馬城)」の跡に建てられた神社こそ、遠江引間城跡「浜松元城町東照宮」なのです。農民から天下人まで出世したことで有名な秀吉公が、初めて奉公した先が「引間城」城主飯尾豊前守の家臣であった松下家。
まだ少年であった秀吉公も、引間城を訪れていたという記録が残っています。
その後、18才になった秀吉公は尾張に帰り…皆さんの知っている天下人への道を歩みはじめるということになるのです。
つまり「引間城」は、初就職先として秀吉公の基礎を作ったとも言える場所。これはパワーあるわ!間違いない!
1570年、徳川家康公が遠江地方を攻略する拠点として入城したのが、この「引間城」。
その後、家康公は「引間城」に居をかまえつつ城を大改築。「ひくま」は「馬を曳く」つまり、敗走を意味し縁起が悪いということで、名前も「浜松城」に改めたとのことです。
その後17年間、浜松城で家康公が活躍の幅を広げ、その後と天下人となることになっていきます。
国道152号線を挟んで浜松城の反対側にあります。意外に知られていませんが、浜松の超パワースポットだそうです。
鎮目さんが神妙にお祈りしていました。磯田道史氏の「日本史の内幕」なる本を読んでこの「パワースポット」のこと知っていたらしいのです。
私も帰ってから買ってしましました。
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《五所神社諏訪神社》
最後に立ち寄ったのは、五所神社諏訪神社。とてもきれいな社です。
徳川二代将軍秀忠公の産土神として崇敬され、絢爛豪華な社殿は国宝建造物としてその偉容を誇ってきましたが、昭和20年戦禍により悉く灰燼に帰してしまいました。昭和35年には両社合祀され、現社殿は昭和57年に再建されました。
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最後のお参りを済ませ、浜松駅に。お土産と浜松餃子!を目指して、

《五味八珍 浜松駅ビル メイワン店》
まずは、浜松餃子を食べようと思いまして駅中のこちらのお店に寄ってみました。餡は野菜多めでジューシで、カリッと香ばしく焼かれていて付け合せのもやしがとてもよく本当に美味しかったです。ビールに合いますね!飲みすぎたかも。

楽しい旅もいよいよ終わりです。列車の時刻に合わせホームへ向かいました。浜松がこんなに見どころがあるなんて想像していませんでした。きっと浜松城へは一生行かなかっただろうと。「直虎」のお陰ですね!史蹟のみんなもありがとう。
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この次は新年会で会いましょう!
posted by mizuさん at 21:25| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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